ルドルフ・シュタイナー

ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861年2月27日 – 1925年3月30日(64歳没))は、バルカン半島のクラリェヴェク[* 1] で生まれ、オーストリアやドイツで活動した神秘思想家、哲学者、教育者である。

ゲーテの自然科学論や学芸雑誌の編集に携わりながら、前衛的な団体やアナキズムの傾向をもつ人々と関係するようになり[1]、ニーチェ主義的な[2]自由思想の立場に至るが、神秘思想の講演者に転身し[3]、人智学(アントロポゾフィー)[* 2]と称する精神運動を創唱した[2]。人智学運動は神智学協会の神智学運動から派生したものであるが、インド思想に傾倒した神智学協会よりもキリスト教神智学に近い性格をもっており[6]、ロマン派の自然哲学[7]、グノーシス、薔薇十字思想の流れも汲んでいる[8]。

シュタイナーの思想はカール・グスタフ・ユング、パウル・クレー、アルベルト・シュヴァイツァーにも何らかの影響を与えた[9]。ドイツ哲学研究者の三島憲一は、1970年代以降のドイツで緑の党に集まった知識人たちのなかに人智学に学んだ人々が多い[* 3] と述べているが、その一方で、1920年代にヴァルター・ベンヤミンはシュタイナーについて「前近代への願望でしかないと見て深く軽蔑していた」(三島 2002 : 596)とも指摘している[10]。

克服に向けた調和への道筋を探った[10]。

人物と業績

シュタイナーは20代でゲーテ研究者として世間の注目を浴びた[11]。1900年頃からドイツの神智学サークルと関係するようになり、神智学徒たちの集まりで講演を行うようになった。1902年に神智学協会の正会員となり、同年ベルリンで「神智学協会ドイツ支部」が設立されると、その事務総長(書記長)に選ばれた。1912年に同協会を脱退し、友人らによって設立された人智学協会(アントロポゾフィー協会)の指導にあたった。晩年の1923年末には「一般人智学協会」(普遍アントロポゾフィー協会)を創設してその代表に就任し、亡くなるまで活動を続けた。人智学について多くの著作を物し、物質世界を超えた超感覚的世界(精神界)に関する事柄を語った。その思想の詳細は、ヨーロッパ各地で行われた生涯6千回にも及ぶ講演を通じて明らかにされた。そのテーマは教育、芸術(オイリュトミーと呼ばれる舞踊など)、医学、農業、建築、経済など、多方面にわたった。シュタイナーの著作や講演集は現在も継続してドイツ語で出版され、版を重ね、外国語にも翻訳されている[12]。

シュタイナーは、ヨーロッパの秘教伝統のなかでもとりわけ重要な人物とみなされている[12]。ドイツの観念論とロマン派の影響下でみずからの思想を形成し[13]、ドイツ近代哲学の認識論の系譜を引いている[14]ほか、ドイツ神秘主義の影響も受けた[2]。また、教育学者の菱刈晃夫によると、シュタイナーはヨーロッパ中世・ルネサンスから続く「魔術」の水脈を受け継いでいる[15]。三島憲一の説明によると、ゲーテの自然科学論の影響下でシュタイナーが展開したのは、当時さまざまに模索されていた総合知のひとつのかたちであり、その背景には新プラトン主義、ドイツ神秘主義、ヨーロッパの古典的な自然科学があった。シュタイナーは宇宙の精神とむすびついた人間の内なる霊性についての認識の基礎づけを図り、また、近代社会の諸問題の克服に向けた調和への道筋を探った[10]。

一貫性のある完璧に整えられた生活スタイルを提唱しており、オーラの色から台所の棚の色までこまごまと生活の指導を行い、追随者たちに精神生活から食事まで影響を与えた[16]。

環境問題が切迫した課題になった現代では、多くのスピリチュアルな組織や指導者が、精神的な課題として環境保護に注目するようになった[17]。シュタイナーは環境問題に関心を持っており、その思想の中心はエコロジーと宗教が占めていたため、現代の時流とうまくマッチした[17]。また、神秘思想としては珍しく、教育、農業、治療といった実用的・世俗的な実践のノウハウを確立させていたため(神智学と大きく異なる点である)、シュタイナーの思想は現代で復活した[17]。シュタイナーの遺したさまざまな構想は、特にドイツ語圏の国々で、小規模とはいえ存在感をもって実践され続けている[12]。現代の人智学協会の活動はさほど活発とも言えないが(主要メンバーは年配者である)、時代に乗って環境運動を成功させ、有機農業・伝統事業といった生態環境的観点に適う企画に低利率で資金を貸し付ける銀行を設立し、人智学運動は教育、治療および医療まで手を広げた[17]。教育の分野においては、ヴァルドルフ教育(シュタイナー教育)およびヴァルドルフ学校(シュタイナー学校)が代替教育として広く普及し、日本でも、世界のヴァルドルフ学校の教員養成で学んだ者を中心に実践されている。現代の人智学協会の影響は、活動の規模よりもかなり大きい[17]。その一方、The Skeptics Society(懐疑派協会)の創設者でサイエンスライターのマイケル・シャーマーなどの現代の批評家は、人智学の生物学、医学、農業などを偽科学と批判している[18][19]。

文芸

22歳の学生であった時に、ゲーテの自然科学に関する著作を校訂して序文を書く仕事を依頼され、13年間かけて完成させた。その成果は1897年に『ドイツ国民文学』という叢書の第一巻として出版された。このシュタイナーの業績は識者たちから高く評価された。

哲学

ロストック大学で哲学の博士号を取得し、その学位論文を編集して『真理と科学』として出版した。

1894年には哲学的主著『自由の哲学』を出版し、その5年後には自身のゲーテ研究の集大成として『ゲーテの世界観』を出版した。しかし哲学の研究者たちからはほとんど評価を得られなかった。

『自由の哲学』では、あらゆる哲学の試みを検討しつつも、複眼的視点においてその欠陥を確定し、別の観点を試みている。自由とは結局、一つのものの見方よりも、より多くのものの見方を得た時にのみ得ることができる、というようなことを示唆している。

霊的な知識(精神科学/霊学)

詳細は「人智学」を参照

「アカシックレコード」も参照

シュタイナーによれば、人間の持っている通常の五感では事物の表面しか捉えることができず、五感を超えた高次の感覚(霊的感覚、超感覚的認識)によって初めて事物の本性を把握することができるという。シュタイナーは透視能力を持っていたといわれ、それによって得た超感覚的世界の実相に基づいて人智学を創始して、人類の霊的向上を促そうと啓蒙を行った[20]。シュタイナーは、物質偏重に傾きすぎた今の文明の在り方を正すために、古代から受け継がれた秘教的・霊的知識を総合し、万人に公開し、それを近代的認識批判の立場からも受け入れられる言葉で語ることが必要と考えた[20]。近代神智学から受け継いだ伝統的な東西の秘教の教義をバックボーンに、整合性と合理性のある体系を作り上げた[20]。ミドルセックス大学のピーター・ワシントンは、人智学についてこう解説している。

と「集中」の行を毎日15分間行いさえすれば、自然と見霊能力が発現すると主張した[20][21]。この点によって、シュタイナーは従来の神秘主義と一線を画している[20]。霊的な事柄についても、理性的な思考を伴った科学的な態度で探求するということを重要視していた。人智学は神智学から心霊科学という概念を受け継いでおり、シュタイナーの言う科学は、一連の知識、明確なひとつの方法論を意味している[21]。自著『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』では、具体的な霊的体験を得るための修行法について記しているが、第二部を作る前に世を去った。

神智学の「ロード・オブ・ダーク・フェイス(黒い顔の主)」という、「グレート・ホワイト・ブラザーフッド・オブ・マスターズ(大いなる白き同胞団)」と闘争を続ける悪霊という漠然とした概念を明確に定義づけし、人類の主な敵は傲慢の霊ルシファーと物質主義の霊アフリマンで、ルシファーは人間は努力すれば人間の限界を超え霊的能力を持てるという身の程知らずな考えに陥らせる霊で、アフリマンは、現代科学・技術の最高神で、人類が精神と五感の領域だけを信じ霊的な面を拒むように仕向けると考えた[22]。1914年に戦争が起こると、シュタイナーは戦争を起こしたのはダーク・フォースだと主張した[23]。また、国家の運命は宇宙の計画の一部としてあらかじめ定まっており、各国には世界進化のために果たすべき役割があり、ドイツ人はその最も高度な点に関わっていると考えていた[23]。国家はそれぞれ天が遣わした大天使が導いており、大天使はその国の民族精神とも言うべき存在だという[23]。

社会改革

人類史上初めての世界的戦争である第一次世界大戦後の最中にあって、戦争をはじめとした社会問題の解決策として、「社会有機体三分節化」運動を提唱した。社会を有機体として捉え、精神生活(文化)、法生活(政治)、経済生活の三つの部分が独立しながらも、精神生活においては「自由」を、法生活(政治)においては「平等」を、経済生活においては「友愛」を原則として、この3つが有機的に結びつくことが健全な社会のあり方であると説いた。当時のドイツの外務大臣を初めとする国家の指導者たちに提案するも、政治的に採用されるには至らず、長い間顧みられなかった。1970年代後半頃から再び検討されるようになり、1980年代の西ドイツの緑の党 (Die Grünen) の創立理念に影響を与えた。

キリスト教

シュタイナーは独自の宇宙論の中でキリスト存在の中心性を重視した[12]。神智学協会はすべての宗教の本質は同一であるという立場を取っていたものの[6]、なかでもインド思想を偏重しており、それに比べるとキリスト教は他の一宗教に過ぎなかった[2]。神智学協会内でシュタイナーの支持者と主流派との間に対立が起こったのも、そうしたキリストに対する立場の違いに起因していた[12]。シュタイナーは人間の肉体を持ったキリストとキリストが亡くなる3年前に彼の肉体に入った聖霊を区別していたため、ジッドゥ・クリシュナムルティが聖霊キリストの最後の生まれ変わりであり最上の人間であるというチャールズ・ウェブスター・レッドビータの主張を、受け入れることはできなかった[24]。また、シュタイナーのキリスト論はキリスト教の主流派からは認められない異端的なものであり[12]、人智学は神学者たちからも厳しく批判された[2]。

キリスト者共同体

シュタイナーの弟子であったルター派の牧師フリードリヒ・リッテルマイアー(ドイツ語版)の主導で、1922年、シュタイナーの特異なキリスト教思想に基づく「キリスト者共同体」が設立された。運動の中心は司祭の養成学校のあるドイツのシュトゥットガルトで、イギリス、オランダ、スカンディナヴィアにもある。この団体は普遍アントロポゾフィー協会から独立した宗教組織で、シュタイナーはこの組織に属さないで外部から司祭たちに助言を与え続けた。

教育

詳細は「シュタイナー教育」を参照

学校教育

シュタイナーの人間観に基づき、独自の教育を行う「自由ヴァルドルフ学校」は、1919年にシュトゥットガルトの煙草工場に付属する社営学校として開校された。この工場に働く労働者の子弟が生徒であったため、初等・中等教育および職業教育を行う総合学校の形態をとった。このタイプの学校がドイツ内外で次々に設立された。現在ドイツのそれらは自由ヴァルドルフ連盟に属している。ヨーロッパ地区では「ヴァルドルフ学校」または「ルドルフ・シュタイナー学校」と総称され、600校(うちドイツに200校)ほどが各国連盟ごとに存在している。日本およびアジア各国においては「シュタイナー教育」という呼称が一般的である。2013年に日本シュタイナー学校協会が設立され、学校法人シュタイナー学園など、全国の学校法人およびフリースクールを含めた全日制7校が加盟している。ヴァルドルフ学校は、自由ヴァルドルフ連盟に登録されていないものまでを含めると世界中に900校以上あると言われる。

幼児教育

シュタイナーは、1920年6月に自由ヴァルドルフ学校の教員会議で次のように発言した。「ほんとうは、幼稚園の頃から子どもを預かることができるとよいのです。子どもたちを受け持つ時間が長ければ長いほどよいのです。就学以前の子どもたちを受け入れることができるはずです。(中略)幼い子どもたちの教育の方が重要なのです。」このように、幼児教育の重要性を説き、自らの指導のもと、E.M.グルネリウスにシュタイナー幼稚園を設立させる意向であった。しかしシュタイナーの存命中にはこれは叶わなかった。亡くなった翌年の1926年に、グルネリウスらによってシュタイナー教育の理念に基づく幼稚園が始まった[25]。

治療教育

障害を持つ子どもたちを受け持っていた学生たちが、シュタイナーから受けた助言をもとに、ドイツのイェーナ近郊に治療教育施設「ラウエンシュタイン治療教育院」を作った。ちょうど同じころスイスのアルレスハイムにある臨床治療院(現在はイタ・ヴェークマンクリニックと呼ばれている)では、心身に何らかの障害を持つ子どもたちが入院し、その入院施設が後に発展して、1924年に治療教育施設「ゾンネンホーフ」が成立した。シュタイナーは治療のために薬以外にも、音楽、絵画、彫塑、オイリュトミーなどの芸術や宗教による特別の教育を示した。イギリスにおいては治療教育は、シュタイナー教育の代名詞と言われるほど評価が高い。

七年周期による教育

シュタイナーは、人間は7年毎に体を完成させてゆき、63歳で成長の頂点を迎えるとしている。

7歳までを肉体、14歳までをエーテル体、21歳までをアストラル体の完成とし、それ以降は自我が独立して発達するとし、それ以前の期間を教育が必要な時期とした。

四つの気質

シュタイナーは、西洋医学(ギリシャ・アラビア医学、ユナニ医学)の伝統的な病理説で、1858年のウィルヒョーの細胞病理説の登場まで約1800年間信じられていた四体液説の体液の分類とそれに基づく伝統的な気質説を取り入れている。自我が優勢な胆汁質、アストラル体が優勢な多血質、エーテル体が優勢な粘液質、肉体が優勢な憂鬱質があるとし、それぞれの気質のどれが優勢かで子どもを分類し、分類に合わせて教育者の対応を変えるとしている。この気質は誰もが四つ持っているが、優勢なものが一つあり、個人における四気質を調和へと導くことが教育の課題であるとしている。

芸術

神秘劇四作の「神秘劇」を創作した。それは超感覚的世界というテーマを含んだ新しい劇であった。現在でも毎年、スイスのドルナハで上演されている。オイリュトミー音や言葉の質を身体の動きによって表現する独自の芸術「オイリュトミー」を考案した。これはシュタイナー教育のカリキュラムや障害児に対する治療教育にも用いられている。お茶の水女子大学の梅林郁子は、シュタイナーの思想において、言語(特に母音)、その表現としての動き(オイリュトミー)、人間の構成体、長調・短調のそれぞれが不可分であり、一つの有機的なまとまりになっていると指摘している。シュタイナーは文字を音として考え、同時に体験としてとらえようとし、この結びつきを前提として身体の動きでこの体験の表現を試みたものが、オイリュトミーである。当時手に入る最大限の情報と思想から言葉と音楽を有機的に結びつける道が探られている。ただし、その理論は言語や構成要素など複数の分野との関連を示しているにもかかわらず、実際には非ヨーロッパ音楽に触れる機会が少なかったこともあり、長調・短調というヨーロッパ音楽のみに基づいている[26]。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Goetheanum-kert.jpg
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Dornach_-_Goetheanum4.jpg

1928年に再建された第2ゲーテアヌム

第2ゲーテアヌムについては、シュタイナー自身が粘土で模型を制作し、現場で建築作業を直接指導して、小ドームの絵の大半を自ら描いた[11]。そこは普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)の所在地であり、人智学運動の中心地となっている[11]。

芸術観念

シュタイナーは芸術を、感覚でとらえることのできる世界における超感覚的世界の表現だとしており、美は理念(イデア)の表現ではなく、表現によるイデアそのものだとしている。美的な体験はアストラル体(感情、感受的心魂の表現)を通じるものだとし、芸術によるいくつかの療法も行っている。

医学

「en:Anthroposophic medicine」も参照

シュタイナー医学、人智医学、アントロポゾフィー医学は、シュタイナーのオカルト概念・哲学に基づいている。シュタイナーとオランダの女医イタ・ヴェーグマン(ドイツ語版)の協力で創始された[27]。シュタイナーは医師や薬剤師、医学生などの前で、自らの精神科学に基づく医学に関する講演を多く行った。また、医師たちの診療に同行し、助言を与えたりした。ヴェーグマンの主導で「臨床医療研究所」や製薬施設が作られた。

人間を物質(肉体)のレベル、生命のレベル、感情のレベル、精神のレベルという4つの構成要素で考え、そのバランスが崩れると病気になるとする[28]。使用する薬剤は自然治癒力を高め、この4要素のバランスを回復させるために人智学に基づいて考案されたものである。自然物を原料とするが、そのまま抽出して薬として使用するのではなく、「熱プロセス(熱加工)、ポテンタイズ(希釈・振とう)などを経て、“その原料がもつ本質”が人間に役立つように製薬された薬剤」であるとしている[28]。オイルマッサージや湿布、オイルバスなどの物理療法、オイリュトミー療法、音楽療法、彫塑や絵画療法、言語療法などの芸術療法、発達支援(治療教育)、色光セラピー、医薬品の処方を行う[29][30]。シュタイナー医学の解剖学・身体観には生物学の常識とはかけ離れた部分がある。病気はカルマの影響を受けるとしている。

シュタイナー医学から、シュタイナーの理念に基づいて自然の原料のみを使った化粧品や食品を製造している会社「Weleda」(ヴェレダ)が生まれた。

ホメオパシーとの関係が深い。由井寅子の日本ホメオパシー医学協会は、シュタイナーが思想にホメオパシーも取り入れていることから、シュタイナー教育関連者にホメオパシー実践者も多いと述べている[31]。

子どもの予防接種に否定的で、シュタイナー医学信奉者の集まるシュタイナー学校が感染症のアウトブレイクを幾度も引き起こしている。

ト・シュテーゲマンによるエーテル的力とアストラル的力の関係性をあらわす「ダイナミックな」という形容詞が冠されることがあったが、両人が妥協しあう形で「バイオダイナミック」という形容詞が使われるようなった。[33] ナチス時代には生産性の低さから公けには禁止されたが、ナチスによって東欧の占領地で用いられた[34]。

バイオダイナミック農法はヨーロッパをはじめ世界各国で研究・実践されている。シュタイナーの農業理念に基づいて設立されたドイツ最古の認証機関であるデメター (demeter) は有機農法の連盟の中でも代表的な団体であり、厳格な検査によって、バイオダイナミック農法の商標の認証を行っている。日本では1985年に千葉県(現在は熊本県)の農場で「ぽっこわぱ耕文舎」が日本で初めて「バイオダイナミック農法」を始めた。

批判については#論争の節を参照のこと。

脚注

[脚注の使い方]

• ^ 出生当時はオーストリア帝国の版図に属するクロアチア王国領で、オーストリア=ハンガリー帝国の成立後、帝国内のハンガリー王国に属するクロアチア=スラヴォニア王国領となり、現在はクロアチア共和国領(Donji Kraljevec)。)

• ^ 「人智学」(人知学)は16世紀頃から秘教的な文脈で使われるようになった言葉で、19世紀にはトロクスラーやツィンマーマンがこれを学術用語としても用いたが、今日では一般にシュタイナーの思想を指す[4]。また、シュタイナーはディルタイやヴントが用いた「精神科学」 (Geisteswissenschaft) という用語も使用した[5]。

• ^ 例えば、のちに社民党に転じて1998年以降内務大臣を務めたオットー・シリー。

• ^ 小杉英了は、フェルキッシュは「民族」を表すドイツ語 Volk(フォルク)の形容詞であるが、フォルクは近代の意識や価値観とは本質的に異なる根源的な何かであり、理性ではなく深い心情を通して実感される始原のエネルギーであると説明している。フェルキッシュも「民族的な」「民族の」という言葉におさまりきるものではなく、「民族根源主義的な、あるいは民族原理主義的な、あるいは民族至上主義的な等々の形容を伴う、ドイツ的深淵を言い表す言葉である」という[51]。

• ^ 雁屋 2008.

• ^ 「昨日は我が家の記念日」 雁屋哲の今日もまた 2008-05-21]

• ^ 大田俊寛「オウム真理教事件の真の犯人は「思想」だった」 2014.05.15 SYNODOS

• ^ 樋口 2012.

• ^ 小杉 2000, pp. 184–185.

• ^ 小杉 2000, p. 185.

• ^ 小杉 2000, pp. 188–189.

• ^ 小杉 2000, p. 192.

• ^ 小杉 2000, pp. 197–198.

• ^ 小杉 2000, pp. 198–199.

• ^ 小杉 2000, p. 188.

• ^ 小杉 2000, pp. 187–188.

• ^ 小杉 2000, pp. 189.

• ^ 小杉 2000, pp. 189–190.

• ^ 小杉 2000, pp. 190.

• ^ ab 大田 2013, p. 82.

• ^ 大田 2013, pp. 42, 70, 79.

• ^ 『ゲーテアヌム通信』1990年10月号; シュタイナー, 西川訳 1992, pp. 87, 237

• ^ POSITION STATEMENT ON DIVERSITY THE ANTHROPOSOPHICAL SOCIETY IN AMERICA

• ^ 衛藤 1998.

• ^ 藤原 2005, p. 47.

• ^ 藤原 2005, p. 45.

• ^ 藤原 2005, pp. 48-52.

• ^ 西井 2013.
前半生

幼少時代(ウィーン以南のオーストリア各地、1861年-1872年)

学校卒業時の写真

• 1861年2月27日、オーストリア帝国の国境近くの町クラリェヴェクにて、オーストリア南部鉄道の通信技師として働く鉄道公務員ヨーハン・シュタイナーとその妻フランチェスカの第一子として誕生[11](両親は低地オーストリア出身で、前年5月16日に結婚)。

• 1862年(1歳)、メートリングへ転居。

• 1863年(2歳)、年頭、わずか半年でメートリングを去り、ポットシャッハ(いずれも現在のオーストリア領)へ転居。8歳までそこで生活する。妹レオポルディーネと弟グスタフが生まれたのもこの土地である(家族は合計5人)。

• 1868年(7歳)、この頃、物質界を超えた超感覚的世界(精神界)を感知するようになったという。

• 1869年(8歳)、父親の転勤のため、ノイデルフルへ転居する。

• 1870年(9歳)、学校の代用教員に幾何学に関する本を借り、幾何学に魅了される。

• 1871年(10歳)、カトリック教会のミサに出席し、大きな感銘を受ける。教区のリベラルなカトリック神父を通して地動説を知る。フリーメイソンリーの支部に出会う。ノイデルフルから5km離れた隣町ウィーナー・ノイシュタットの医師カール・ヒッケルを通してドイツ文学を知る。駅にある無線電信で電気を知る。読むことは問題なかったが、正しく文字を綴ることに苦労する。

• 1888年(27歳)、1月から7月にかけて『ドイツ週報誌』の編集をする。

• キュルシュナー編集の辞典の縁もあり、美学に関する研究を進め、特にアレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンとエドゥアルト・フォン・ハルトマンの美学史に専念し、その研究内容はワイマールの「ゲーテ協会」にて『新たな美学の父としてのゲーテ』という題名の講義によって公開される。ロベルト・ハマーリングの『ホムンクルス』に強い感銘を受ける。プロテスタント系の牧師と興味深い出会いをする。豊富な交友関係とは裏腹に、内的な孤独に見舞われる。

• 1889年(28歳)、初めてニーチェの『善悪の彼岸』を読む。ハルトマンに初めて面会し、画家ローザ・マイレーダー (1858年-1938年) とも知り合う。冬にウィーンの神智学徒フリードリヒ・エクシュタイン (Friedrich Eckstein, 1861年-1939年) と知り合う。
• ワイマール時代 1890-1896

1891年、OttoFröhlich画

• 1890年(29歳)、ウィーンの『国民新聞』に演劇評論を連載。秋にワイマールへ転居し、ゲーテ=シラー遺稿保管局にて働くようになる。ワイマール版(ゾフィー版)ゲーテ全集の編纂において、ゲーテの自然科学論文集の出版に携わる。

• この時期エルンスト・ヘッケルに面会している。

• 1891年(30歳)、ロストック大学のハインリッヒ・フォン・シュタイン教授に学生資格のない社会人として自費で論文指導 (Externe Promotin) を受けることを許され、『認識論の根本問題 – 特にフィヒテの知識学を考慮して』と題する論文で哲学博士の学位を取得する。ただし、評価は「可」(ausreichend 合格4段階評価の一番下)であった[36]。

• 1892年(31歳)、5月、その論文に加筆・訂正したものを『真実と学問』 (GA3) として出版。夏にはそれまでのユンケル通り12番から、後にシュタイナーの妻となる寡婦アンナ・オイニケ(1853年-1911年)の住むプレラー通り2番に転居。この時期いくつかの哲学と哲学史に関する著述をする。この中には1893年11月に刊行された『自由の哲学』 (GA4) も含まれる。

• 1894年(33歳)、教授資格申請論文は評価されず失敗に終る。

• 1895年(34歳)、5月、『フリードリッヒ・ニーチェ みずからの時代に闘いをいどむ者』 (GA5) を出版。

• 1896年(35歳)、「ゲーテ=シラー遺稿保管局」を退職。

ベルリン時代初期 1897-1901
• (カイ 1844年-1921年、ゾフィー 1848年-1906年)にベルリンの「神智学文庫」での講演を依頼され、9月22日はニーチェについて、同月29日にはゲーテについての講義を行う。

• 10月6日より神秘主義に関する連続講義を開始、この内容は翌年自身の手によって纏められ、出版される (GA7)。これ以降、シュタイナーは、講演活動を活発に行うようになる。

後半生

人智学発展の第1段階(1902年-1909年)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Steiner_mit_Annie_Besant.jpg
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:PL_Steiner_Rudolf_-_Kronika_Akasha.djvu

『アカシャ年代記より』

• 1902年(41歳)、1月17日に神智学協会の会員となる。

• 7月、女優マリー・フォン・ジーフェルス(1867年-1948年)と共にロンドンでの第13回ヨーロッパ支部年集会に出席。

• 9月には昨年に自身が行った講義を編集した『神秘的な事実としてのキリスト教と古代の秘儀』 (GA8) が出版される。

• 10月19日、「神智学協会ドイツ支部」が設立され、シュタイナーは事務総長に就任。
• てから初めてのドイツでのヨーロッパ支部連合神智学会議は、ミュンヘンで開かれる。シュタイナーはそこでのインテリア設計を請け負い、自身の思想を建築的空間に可視的に表現することを試みる。シュレー作の『エレウシスの神聖劇』も上演される。

• 1908年(47歳)、8月1日、マリー・フォン・ジーフェルスは「哲学=神智学出版」(後に「哲学=人智学出版」)を設立する。この年にシュタイナーは初めてスカンディナヴィア地方を旅し、同時に各地で講義活動を行う。

• 1909年(48歳)、ドイツの詩人クリスティアン・モルゲンシュテルン(1871年-1914年)に出会う。

• 8月、ミュンヘンでシュレー作の『ルシファーの子供たち』を上演。

• 12月、自身の精神科学研究の集大成とも呼べる『神秘学概論』 (GA13) を脱稿。

• 1913年(52歳)、2月3日、人智学協会第一回総会がベルリンにて開催される。建設省の芸術担当者の反対により、「ヨハネス建築」(後にゲーテアヌムと呼ばれる建物)の着工ならず。

• 5月中旬に建築候補地としてバーゼル近郊のドルナハが挙がり、同18日にそれを決断。

• 8月にはミュンヘンにて神秘劇第四部『魂の覚醒』が上演される。

• 9月20日、ゲーテアヌムの礎石奉納の儀式を行う。

• 1914年(53歳)、3月31日、無二の友人であり最も良き理解者であった詩人クリスティアン・モルゲンシュテルンを亡くす。

• 7月28日、第一次世界大戦勃発。

• 12月24日、マリー・フォン・ジーフェルスと再婚。1914年から1923年にかけてシュタイナーはベルリンとドルナハを行き来し、両都市をその居住地とする。

• 1915年(54歳)、ゲーテアヌムの舞台の背景の中心に据えられるべき「人類の典型」と題する彫刻の製作に取りかかる。ゲーテアヌムの大小二つの天井画を描く。

• ム』を創刊。この頃、自伝を書く。

• 11月、ノルウェーのオスロ大学で「経済の根本問題」と題して講演。

• 1922年(61歳)、7月24日から8月6日、「国民経済学講座」が開かれる。

• 9月にキリスト者共同体の創設に寄与する。

• 12月31日午後10時、火災によってゲーテアヌムが炎上、翌朝焼失。

• 1923年(62歳)、1月、体調が優れない中、週刊誌『ゲーテアヌム』で自伝『我が生涯の歩み』 (GA28) の連載を始める(翌々年の自身の死によって中断し、未完に終わる)。

• 12月25日から翌1924年1月1日、降誕祭会議を開催。それまでの人智学協会を刷新し、普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)を新しく発足させる。その心臓部となる「精神科学自由大学」(翌年2月15日第一講開催)を設立する。本部はゲーテアヌムに置くものとされた。

• る。

• 6月、コーバーヴィッツで「農業講座」が開かれ、バイオ=ダイナミック農業の基礎が築かれる。ドイツではこの方法で作られた野菜にはデメター (Demeter) というマークがつけられている。

• 6月から翌7月、言語オイリュトミー講座と治療教育講座がドルナハにて行われる。

• 9月、ドルナハにて演劇講座。9月28日午後8時からの講演を20分で中断し、病床に就く。

• 12月1日、「新しいゲーテアヌム」の建築許可が下りる。このコンクリート造りの「第二ゲーテアヌム」の建設が実際に始まったのは翌年に入ってからであり、完成したのは1928年、つまりシュタイナーの死の3年後であった[37]。

• 1925年(64歳)、元日深夜、卒倒、高熱により食欲は減衰。3月26日、病状は好転するものの、29日、病状は悪化、30日午前4時頃、イタ・ヴェーグマンに苦痛を訴え、5時頃に普遍アントロポゾフィー協会理事のアルベルト・シュテッフェンとギュンター・ヴァックスムートが病室に呼ばれる。午前10時頃、ルドルフ・シュタイナー他界。

• 4月1日、夜に葬儀が執り行われる。死の3日前までシュタイナーは「人類の典型」(キリスト)にのみを振っており、また死の前日には第二ゲーテアヌムの内部建築のために使用するアトリエの完成について訊ねているなど、その制作意欲は最後まで衰えることはなかった。

死後

• 1928年、第二ゲーテアヌムが完成。

• 国家社会主義の時代(ナチス・ドイツ時代)には、人智学はさまざまな規制を加えられた。

• 1933年11月15日、国家社会主義のテューリンゲン州の経済相は、生物学的力動的(バイオダイナミック)な生産方式の宣伝普及を禁止した。

• 1935年11月1日、ドイツのすべての普遍アントロポゾフィー協会が、ラインハルト・ハイドリヒ の訓令により禁止された。

• 1992年、日本アントロポゾフィー協会(東京)でも精神科学自由大学の活動(クラッセン・シュトゥンデ)が始まる[38]。

• 2000年5月、日本で「日本アントロポゾフィー協会」が設立される(2002年11月、NPO法人として認証を受ける[38])。

• GA271-354 III. 専門分野のための講義と講座(1:芸術、2:教育、3:医学、4:自然科学、5:社会論、6:神学者、7:労働者)

C. 芸術作品の複製品(主なもの)編集

出版社はシュタイナーの絵画作品のレプリカ(ポスターや絵葉書)、絵画の授業に使った習作、オイリュトミーの動き方や形態に関するスケッチ、黒板絵、ゲーテアヌムの写真などを画集として出版している。それらは芸術 Kunst に関するものなので、K-番という表記でナンバリングされている。

K12ゲーテアヌムのステンドグラスに関するものK23/1-23/8,24オイリュトミーのフォルムK58/1-58/29黒板絵の画集

D. ルドルフ・シュタイナー全集に宛てた寄稿論文集

平均約60頁のB5の小冊子で、2006年現在、122巻まで発行されている。1949年以降、年平均2巻強のペースで刊行されており、現在も刊行中。

• übersinnliche Welterkenntnis und Menschenbestimmung, 1904

• 『神智学』高橋巖訳 筑摩書房 2000年7月 原書第九版 ISBN 4-480-08571-8

• GA10 Wie erlangt man Erkenntnisse der höheren Welten, 1904

• 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』 高橋巖訳 〈ちくま学芸文庫〉 筑摩書房 2001年10月 ISBN 4-480-08664-1

• GA11 Aus der Akasha-Chronik, 1904–08

• 『アカシャ年代記より』 高橋巖訳 国書刊行会 1994年6月 ISBN 978-4-336-03624-7

• GA12 Die Stufen der höheren Erkenntnis, 1905-1908 『より高次の認識の階梯』

• des sozialen Organismus, 1919 『社会三層化のための論文集』

• GA25 Drei Schritte der Anthroposophie, 1922 『人智学の三段階』

• GA26 Anthroposophische Leitsätze, 1924/1925

• 『人智学指導原則』 西川隆範訳 水声社 1992年9月20日 ISBN 4-89176-256-X

• GA27 Grundlegendes für eine Erweiterung der Heilkunst nach geisteswissenschaftlichen Erkenntnissen, 1925 『霊学的認識に基づいた治療芸術の拡張のための基礎』

• GA28 Mein Lebensgang, 1923-25 『我が生涯の歩み』(自伝)

• 『シュタイナー自伝 (1)』 伊藤勉訳 ぱる出版 2001年7月 ISBN 4-89386-888-8

• 『シュタイナー自伝 (2)』 伊藤勉訳 ぱる出版 2001年7月 ISBN 4-89386-889-6

• Paralipomena zu den vier Mysteriendramen 『

テキストのコピーはできません。