競争社会を超えて

第9章

競争をこえて

変化をもたらすためのさまざまな考え方

身体的、精神的、感情的、社会的、いずれの健康にとっても有害なものだ という説得力のある証拠があるにもかかわらず、競争は、アメリカの文化 において支配的なものでありつづけている。援助の手をさしのべることに 従事している人びとの反応は、どのようなものだろうか。われわれは、社 会変革を行っていく創造的な主体なのだろうか、それとも、傷ついた人び とにバンドエイドをくばり、「現状」に適応するようにうながしていく主 体なのだろうか。

ヴェラ・J・エレソン『競争 文文化の至上命令」より

意図的な競争と構造的な競争の再考

土曜の朝に放送されるテレビの子供むけの番組で、アニメに登場する人物は、足元に地面がなくなって しまってからも走りつづける。落ちていくまでには、すくなくとも下をみおろす余裕がある。それは、ま るで無知とはずみとがうまくかみあって走りつづることができるかのようである。競争についても、おなじことがいえるだろう。われわれは、ナンバー・ワンになろうと猛烈に努力しつづけるのであり、こうすることがともあれ自分にとっていちばん利益になると信じつづけ、自分の子供たちの世代もおなじことを するように育てあげていくのである。つぎのような事実があるにもかかわらず、このようなことを行いつづけていくのである。

報酬をそれぞれちがった額で配分する場合、競争的なシステムと比べると、協力的なシステムのほうが、個 人や集団の生産性、個人の学習、社会関係、自尊心、仕事にたいする態度、集団のほかのメンバーにたいする責任感により好ましい影響をおよぼす。この結論は、ほかのおおくの研究者たちが何百もの研究を行うことによってみいだしてきた研究結果と一致している。このことは、競争があったほうが相対的にメリットが おおきいというひろく浸透しているイデオロギーに反するものだが、いまではもう十分に確証された研究成果なのである。

Letter Than Number, one. best より

No.1

One

モートン・ドイッチュがここでもういちどとりあげている、このような証拠があるにもかかわらず、われ われは、ほかの人びとの失敗を踏み台にして自分が成功しようとしつづけるのである。われわれ自身が、 その失敗する「ほかの人びと」になってしまうこともおおい。だが、だからといって、勝利を追いもとめ ることがなくなるとか、競争がいいものであるという信念がうすれることはほとんどないのである。

第9章 競争をこえて 章

Only

このような事態を変えていくことがむずかしいのは、構造的な競争と意図的な競争が互いに補完しあっ ているためである。競争が望ましいものだというひろくいきわたっている信念と、ほかの人びとをうちま 第 かしたいという気持ちが両方ともあいかわらず存在しているかぎり、どのようにしたら現代の社会におけ る競争の枠組みを完全になくしてしまうことができるのだろうか。それにたいして、われわれに競争する312

ように要求する(そして、自分の信念と行為の方向性とを一致させたいと思わせる) 構造が存在しつづけ るかぎり、どのようにしたらこうした考え方を変えることができるのだろうか。これは、一世代まえに公 民権運動の活動家たちが直面したのとおなじティレンマである。つまり、人種差別主義的な態度がひろく いきわたっているために、政府の法令によって差別を終らせようとしても抵抗されてしまいかねないだろ うが、にもかかわらず、差別が存在する社会において、どのようにしたら人種差別主義を打破することが できるのだろうかというディレンマとおなじなのである。

ポール・ワクテルは、こう述べている。「ひとりひとりの人間の価値観にしても、システム全体の価値 観にしても、どちらが主要なものであるということはない。たえず互いに影響をおよぼしあいながら、そ れぞれが他方を規定していくのである。競争的な価値観をもったシステムに属している人びとは、競争を 好むようになる傾向がある。 そして、そうなることによって、システムを競争指向的なものにしつづけて (pu) いくのである」。どのようにしたら、この悪循環を断ち切ることができるのだろうか。それは、同時に両 方のレベルにたちむかうことによってである。「もっとも有効なのは、多元的なアプローチである。それ は、公然と行われる行動を変えるというだけでなく、また、たんに洞察をふかめていくことにもとどまら ない。むしろ、因果関係の連鎖のさまざまな結び目をいちどにゆるめようと試みるものである。・・・・・・われ われの信念と価値観が制度をかたちづくり、われわれの制度が信念や価値観をかたちづくるのだから、多 (1) 方面にわたって努力を行うことがもとめられるのである」。残念ながら、ワクテルは、どのようにしたら この多方面にわたる努力を行えるようになるのかについてはあまりおおくの指針を示してはいない。 それ が、本章の課題になるわけである。

same demantion same level

*

第5章において、意図的な競争については、自尊心がもとめるものであるという観点から理解できるだ ろうと論じておいた。つまり、自分たちが価値のある人間だということを証明しようと努力しながらも、 その一方では他人をうちまかそうとするのだと論じておいたのである。結局のところ、この戦略が不毛な ものにすぎないのはあきらかである。というのは、自分たちの自尊心が満たされるかどうかは勝利しうる かどうかにかかっているということになると、自尊心はつねに不安定なものになってしまうからである。 競争すればするほど、ますます競争することが要求されるのである。 この罠から最終的に逃れるには、自分たちの自尊心をたもっていけるようにするもっとうまい方法をみ つけだすことである。 つまり、自分たちの優位性を証明しつづける必要などなくなるぐらいに、自分たちにたいする無条件の信頼をきずきあげることである。自分自身に好感をもっていればいるほど、相手の人間をうちまかす必要などなくなるだろう。カール・ロジャーズは、他人にうけいれてもらうという経験をしたことがあれば、自分自身をうけいれることもできるようになるのだと強調している。 直感的にいっても、このやり方は、他人にたいして勝利をおさめようとすることよりも期待がもてるように思われる。しかしながら、ひとりひとりの人間にとってこれらの問題がそれぞれ重要度がことなるということを考えあわせてみると、この複雑な過程を機能させていく方法を提案しようとするのは大胆すぎるだろう。ここでわたしがそれなりにいっておけるのは、意図的な競争と自尊心には関連性があるという点に注意をうながしておくことだけである。意図的な競争を克服することは、ある意味で自尊心に関心をはらうことにつながるのである。

付け

→それがアイデンティティを 形づくっている。相対評価(評価比較 自尊心はもちろんオール・オア・ナッシングの問題ではない。自分にいちばん自信がない人びとが、

自分には才能があるのだ(そして、最終的には、自分が優秀なのだ)という証明をもっとも必要とするの かもしれないけれども、だれでも、自分がうまくやっているかどうかをチェックし、自分が有能なのだ もある。 と納得したいと思うものである。自分たちをランクづけすることに慣れてしまっているために、(他人と るのの関係において)自分たちがどこに位置しているのかということが、どんな人間なのかを決定づけるもの でもあるかのように思いこんでしまっているのである。そのため、批判する側が、こうした考え方をわれ自己測 われがのりこえていくように熱心にすすめていくということならば、当然ランクづけのかわりになるものの満足度 が必要となる。まさに自分たちのアイデンティティをたもつためにランクづけにたよりきってしまってい るとすれば、すぐさまランクづけのない状態に順応することを期待するのはとうてい無理だろう。さいわいにも、これまでので指摘してきたよに、自分たちを他人と比べてみることが進歩を確認するただひ とつの方法というわけではない。そうではなく、自分自身がかつてあげた業績だとか、なんらかの絶対的しさ 基準に目をむけることで、自分たちがどれぐらいよくやっているのかを確認することができるはずであり泣いて る(先週よりも何往復かおおく泳いだということで満足するならば、となりのコースの人が何往復したのう かチェックしないではいられないといったことはなくなるだろう)。

これには、ふたつの条件をつけておきたい。第一に、かつてあげた業績のような競争とは関係がない基準で さえ、生産的なものなのである。たいていの場合、自分たちが行っていることをチェックして、もっとたくさ 生産しようとするのをやめてしまったほうが望ましいだろう。 往復した回数をかぞえるのをやめて、楽しいと思 えるかぎりひたすら泳ぐだけにすることもできるのだ。第二に、すでに指摘しておいたのでふれる必要のないことなのかもしれないが、自分がなしとげたことを他人のそれと比べることにしても、必然的に競争をともなうわけで はないのだ。他人よりもうまくやる必要がないのなら、他人がどれくらいうまくやれるのかをながめていること だってできるのである。

相手を打ち負かすという、破壊

たとえ構造的な競争に参加せざるをえない場合でも、自分の競争意識をなくすように努力することはで

きる。どんなにすくなめにみても、活動の結果から関心をそらせることによって、わたしが「過程の競 争」とよんできたものにかえていくことができるのである。 競争的なゲームを行うことになっても、得点 しまうことで、同時に、敗北の衝撃をやわらげるのである。競い合いにくわわるときにはいつでも、仲間 意識でつつみこんでしまうことができる。競争している人たちどうしの絆を強めるためにとくに努力する ことによって、互いに相手をうちまかさなければならないといった破壊的な影響をいくらかでも弱めるこ とができる。ライバルにたいする友好的な姿勢がむくいられることは、意外におおい。というのは、おそ らく対戦相手もおなじように、われわれがもっている構造によって孤立させられ、囚われていると感じて いるからなのだろう。どんなにすくなめにみても、そうした好感をあたえる態度は、おなじ地位や賞をも とめて競争することによって生じる敵意をやわらげる

などつけるべきではないのだ。どちらが勝ったのかあきらかだとしても、すくなくとも、賞を授与したり、 勝った人間をちやほやしたりするのはつつしむべきだろう。勝利することの意味を最小限におさえこんで

第9章 競争をこえて

ことができるのである。 あらゆる状況においてナンバー・ワンになろうとするのは、自尊心がもとめるからなのだろうが、おな じように習慣の力によっても動かされているのである。そのように考えることに慣れてしまうだけなので ある。さまざまな状況において自分自身に競争意識があると感じられるとき、それを監視し、さらに、こCoope-

の衝動をおさえようと意識的に努力してみるのも有効だろう。「なぜまたしても彼の話をさえぎってし まったのだろうか。自分よりも利口だということをみんなにみせつけようとしているのだ」。 「ちょ うどくつろいでいるときに、彼がいっていることに耳をかたむけるというのはなんなのだろうか」「どう してもういちどダイエットしようなどと決心したのだろう。それは、わたしよりもほっそりとした女性が 部屋にはいってきたからにすぎない。わたしよりもほっそりした人は、いくらでもいるというのに。なん ということだ。自分自身の意識に注意をむけることは、ほかのすべての人をうちまかしたいという 反射的な衝動を直視し、克服するのに役だつのである。 このようなことすべてを考慮することが、子供たちを育てたり、教育したりすることととくに関連があ

る。 子供の成績について、もっとがんばるようにその子をはげますつもりでも、ほかのだれか兄弟、 同級性 子供のころの自分)と比べたりしてはならない。愛情を示したり、ほめたりするにしても、 子供 成績に左右されてしまったのではまずいだろう。このことが意味しているのは、「おまえ、いいんだよ。 最善をつくしたんだから」などと、 負けてしまった子供をすなおな気持ちで慰めてあげればいいなどとい うことではないということである。それは、もふくめて、子供がまきこまれることになった競争によ 衝突の結果についてまったく無頓着だということを意味している。 子供たちにたいして、自分には価値 があるのだと思う気持ちを勝利することに結びつけていくようにさせてしまいがちなのだが、そうした 人をあざむくようなやり方をしないようにとくに気をつけなければならない。というのは、 クラス でいちばんでありつづけるようにもとめるかぎり、子供たちは、そのメッセージをうけとり、そのとおり のことを自分自身にたいして要求するからである。 すでにみておいたように、その結果もたらされるのは、 優位性ではなく、不安であり、自己不信であり、敵意であり、なかでも、もともともっていた動機づけが

( 競争から協力へ  from competition  )

弱くなってしまうということである。

競争がもたらす心理的な損傷や対人関係における損傷はとても深刻なものなのであって、そのことを はっきりと子供たちに教えてあげなければならない。子供たちに、タバコとアルコールをふくめたドラッ グを乱用してはならないと教える授業さえある。それなのに、互いに排他的な目標達成については、なぜ おなじように教育をほどこしてあげないのだろうか。その根拠はきわめてはっきりしており、教育の効果 もかなり期待できるのはたしかである。なにをいうのかということよりも、なにをするのかということの ほうが重要なのは当然だとしても、とくにたいせつなのは、子供たちを互いに対立するようにしむけては ならないのであり、 競争的な役割モデルを子供たちにおしつけてしまうようなふるまいをしないことであ る。しかし、競争が神話にすぎないこと、また、競争の健全な代替物である協力に敬意をはらうように、 子供たちに教えてあげることもまた有益なことだろう(教える内容を子供たちの発達段階にあわせるのは、 もちろんである)。だが結局は、第2章で述べておいたように)、現在のところは子供たちにたいして競 するようにしつけをほどこしているのであり、したがって、自由な価値意識をもった教育をすてて思想 の教化にむかうのではなく、競争を助長する教育から競争に反対する教育へと転換すべきなのである。子 供たちには、どうして協力すべきなのか、また、なぜそうなのかについてあきらかにしてあげることにし 第9章 よう。

競争をこえて

これまで述べてきたことすべてが、意図的な競争、すなわち、他人よりも優位性をたもっていたいとい う傾向にかんするものであり、価値観と自尊心にかかわる問題である。競争を好む人間にならないように318

努力する際に、価値観と自尊心の両方に注意をはらうべきだということには十分な理由がある。それでも なお、競争を好まないように努力する成果のほどは、経済システム、学校教育、余暇の活動などの構造に 制約されている。このような構造が、ある人が成功するには他人が失敗することが条件となるようにしつ らえられているとすれば、競争的ではない健全な態度というのは、特異なものでしかなく、まったく適応 力がないと思われてしまう。いずれにしても、そういう態度をたもちつづけていくのはむずかしいだろう。 わたしが競争について考えはじめたとき、構造的な競争と意図的な競争は完全に均衡のとれた状態で互 に関連しあっており、それぞれおなじぐらいに他方を規定する原因になっていると思われた。時間がた つにつれて、この立場を変更せざるをえなくなり、ついには、構造的なレベルのほうがはるかに重要だと 認識するようになった。勝敗に重きをおくのを最小限におさえることは可能である。だが、そうするため には、流れにさからって泳ぎ、活動の構造が要求するものを無視しなければならなくなってしまう。競争 相手と有効な関係をたもちつづけることは可能である。だが、相手の利害が自分自身の利害と反比例する 関係になっているために、互いに敵意をもって相手をながめる傾向が生じてくる。「すばらしいスポーツ」

を行うことは可能である。だが、このことですら、競争が強いる命令と衝突するのである。 ある構造がどのようにして特定の行動をみちびくことになるのか、具体的な例をあげて考えてみよう。 スタンフォード大学のフィリップ・ジンバルドとその同僚は、看守と囚人の役割を演じる男子学生をえら んで、心理学の研究棟の地下につくられた実物そっくりの「刑務所」のなかで、拘禁の効果についてこれ までにない実験を行った。二人の被験者は、七五人の志願者のなかから正常かどうかという基準にもと づいて厳選された。彼らは、精神的に安定しており、性格分析の一覧表ではまんなかぐらいの点数がつけ られていた。これとおなじぐらいに重要なのは、囚人役になるのか、看守役になるのかは適当にわりあてられたことである。被験者たちは、ほぼすぐに、それぞれの役割に特有の病理的な性格を示しはじめた。 看守は、収容者にたいして身勝手な仕事をおしつけ、ばかげた規則を考えだすのに夢中になり、絶対的な 服従を要求し、互いに侮辱しあうように強要した。囚人たちは、受動的で、従順になり、欲求不満を互い にぶつけあったり、そうでない学生は、犠牲者の役割をひきうけることになった。看守が虐待的な態度を とるようになると、囚人は、ますます無力で従属的になった。こうしたパターンがとても顕著になってき たので、ジンバルドは危険だと判断し、二週間の予定だった実験をわずか六日後にうちきってしまったの によって生じた結果を

だった。

この実験がどのような意図のもとに行われたのかを考えあわせてみると、実験 それにかかわったそれぞれの個人の側から説明することはできない。 被験者とおなじように、研究の当事 者たちも、「ひとりひとりの個人が、それぞれ特異なやり方で反応する、内面的な性向という性格的な特 性に焦点をしぼる」傾向があった。そのため、「ひとりひとりの個人の行動を支配し、つくりかえてしま うような状況がひめているとらえがたい威力を過小評価しているのだ」。ジンバルドが強調するのは、ほ とんどの人間がおなじあやまちをおかしており、「人びとを変化させることによって、人びとの行動を動 機づけ、孤立させることによって」問題を解決しようとするようになるということである。実際、「行動 を変化させるためには、いま行われている望ましくない行動を背後からささえている制度をみつけだし、 こうした環境をかえていくための計画 (-)

をたてていかなければならないのだ」と彼は結論づけている。 このことは、なによりも競争の場合にあてはまる。われわれは、ナンバーワンになりたいと思うよう にたえず刺激をあたえられている。なぜなら、こうした指向性をもつのは、われわれが属している勝利/ 敗北の構造にふさわしいものだからである。 他人をうちまかすようにしむけるのは、競い合いに参加しな

(金化安いものを高く売る。出し拓くたます。 ければならないということなのである。したがって、もっと健全な方向へとむかいたいと思うならば、変

なければならないのは、競い合いに参加しなければならないということそのものなのである。 七〇年ほどまえに、ジョン・ハーベイとその同僚たちは、「故意の」競争と「やむをえない」 競争とを 区別した。 それらは、それぞれ「意図的」と「構造的」とわたしがよんできたものにほぼ対応している。

「アメリカの文明が生みだす道徳的な環境全体においては、やむをえない競争は、すぐに故意の競争に転 化してしまう」と、ハーベイは結論した。彼によれば、やむをえない競争がひきだす性格的な特性は利己 的なことである。「(この特質を) 故意に生みだすということにはならないだろう。しかし、現在のように アメリカのビジネスの慣行がほかの人たちと対抗させようとするものであるかぎり、偶然だろうと、なん おなじ

の気

なしにだろうと、この特質を生みだしてしまうことは避けられないのである」。 ように、ウィリアム・サドラーは、個人が世の中をどのようにみるのかは構造によって決定され すると主張している。 (USE)

関係

be unrelated

80×2=100

収入をめぐる。

Script. Total 10 Game シナリオ New moral

ひとりひとりの個人が自分なりの現実認識をかたちづくっていくうえで手助けをしてくれる制度に属してい

るかぎり、競争をたかく評価する価値指向は、永続的にたもたれていく。いいかえるならば、世の中を競争 的な観点からみていくようにする共通の認識を育んでいくという点に、社会的な威力が収斂する傾向がある わけである。この制度的な要因にくわえて、競争を禁じるような威力のほうは消えうせ

てしまうのである。 第5章と第6章で示しておいた証拠が、この見解に確証をあたえてくれる。かかかかの心理的な状態と他 者との関係のありかは、意図的な意識がどの程度かかっているのかということと互いに関連してい むだけでなく、構争のかによって変化させられているのである。さらに、べつの研究をひ ZT/ME

New

Life span

比べる。

one

GAME

きあいにだすならば、 とをみいだした。もうひとつの根拠を提供してくれるのがスーザン・シャークの見解であって、協力的なう 性向をもっていた中国人の学生たちが、競争的な構造をおしつけられたときに、どうして助けあうのをや (0) いつめてしまったかについて述べられている。もっと身近な例をあげてみると、都市は公的なものではない

ドイッチュは、「自分自身や集団内のほかの人たちにたいする見方をふくめて、被 験者の心理的指向性は、自分たちが属している配分システムの関数としてはかなりことなっている」こ

B2

(USE) GAME. in sculpture of self body we

(10) が、強力な構造をそなえており、道路を運転するときも競争的な行動がもとめられるであり、そのためど たんなに礼儀正しく、協力的なドライバーでも、都市にはいるとどんなに変身するのかをみてみるといい。 と個人の性格パターンは、構造に順応するためすぐさま変身してしまうのである。 協力的な枠組みが行動や態度を変化させていくものであることを示すことによっても、構造的な力がスモール もっとも重要なことが の行動と握力

証明される。意図的な競争をおさえていく戦略をいくつか再検討したあとで、テ リー・オーリックは、つぎのように述べている。「まえからいだいている指向性をかえるよりも、あらた Te ゲームを導入したほうがもっと効果があるだろう。ただ協力的なゲームを導入し、根づかせるだけで、エミッション 目標の到達にもっと近づくことができるだろう」。さらに、ポール・ブレアとエドウィン・ロックがみいだ (2) したように、構造によって価値観がもたらされる場合には、個人の生活全般にわたってその価値観が浸透

エネルギ

戦争 個人

の性格を迎え 構造が人間

①て社会

していくのである。

新たなゲーム= ウルトラ ローコストライ 組織の目標を第一におき、自分の努力を同僚たちの努力と調和させ、まわりの人たちに自分の性格が魅力的 にうつるようにすることで報酬をうけるようになると、協力、調和、チームワークなどが成功をもたらす手 役として役だち、本質的に楽しいものであり、道徳的にも望ましいものだとみなされるような状況におうじ

ライフ

(ULL) GAME

構造

ヒューマンス

ボディサイズ

スリー

プリンシ

プルズ

SOCIETY

すべて

ok

2

ek contest Competition

世の

モラ

一定の指向性が育まれていくだろうこのような指向性は、仕事から家庭へ、地域社会へ、さらには社会 全体にまでひろがっていくと予想できる。これは、実験室で発見されたものとまったくおなじものだという ことが思いおこされるだろう。 構造的な協力がもたらす効果にかんする決定的な例が、 ロバート・アクセルロードによって示されてい

協力的な戦略がもっとも効果的であることを証明する) 囚人のディレンマ・ゲームについて論じる 際に、アクセルロードは、歴史的なきわだった事例を引用している。第一次世界大戦のあいだに、それぞ れをはさんで互いに対し軍隊は、撃ちあいをしないということを了解しあっている場 おおかった。 それは、自分も生き、相手も生かす」という自然発生的に生まれた相互了解だった もちろん、この双方の自制は、両軍の司令部にとっては許しがたいものだが、兵士たちは、互いに殺 しあわないという相互了解をつらぬいていくだけの無さをそなえていた。彼らは、あきらかに互いに しみあうように訓練されていたのだから、協力して行動するようにしむけられていたわけではなかった。 つまり、彼らの態度とは裏腹に、構造的な協力が根づいたのである。実際、あらたな状況が、 兵士たちの を変えたのである。ある日、軽率にも銃弾が一発発射されたとき、すぐにドイツ兵が「いまの撃は、 たいへん申し訳がない。 だれにも怪我がなかったらいいのだが」と叫んだという事件のことを、アクセル ate Yet N ロードが引用している。 これは、あきらかにほんものの気づかいなのであって、「たんに報復をふせぐた めの手段として努力をするなどというものをはるかにこえているのだ。互いに自制しあう協力的なや りとりが、実際に、相互行為の性質を変えてしまったのだ。彼らは、互いの幸福について、双方ともに気 づかう気持ちがあったのだ」とアクセルロードはコメントしている。 いいいかえれば、ひとりひとりの

ollaborat fall people

Wring (human pare) (on the Earthin

lish ムの指向性が、構造によって影響をうけたのである。

re-estab- New moral of civilization

(1)

どのようにして社会の変化を阻止するのか

現代の社会を競争的でなくしていけるかどうかは、最終的には、構造的な競争をなくしていけるかどう かにかかっている。残念ながら、どのような構造的な変化をもたらす場合にも、ものすごい抵抗が予想さ れるわけであり、それをのりこえていくことがもとめられる。どのようにしたら変化をおしすすめていく ことができるのかということよりも、どのようにしたら変化を阻止できるのかということについて述べる ほうがずっと容易である。 そこで、そのような気持ちをもっている人びとのために、現状を永続させてい く ための簡単な方法を五つあげてみよう。

atom of mole cute

1

視野を限定してしまうこと アメリカでは、これ まで長年にわたって、社会の問題と個人の問題が かかえる構造的な原因が無視されてきたということについては、第7章でふれておいた。たとえば、自分 たちが心理的な不安をかかえていても、パーソナリティの発達をうながしていく社会的な威力とはなんの 関係もないようにとりつくろってしまうために、そのような威力がおとろえずに生きのっていくことに手 をかしてしまうのである。その結果、介入が行われる場合には、すべて個人のレベルで行われるべきだと されてしまうのである。たとえば、ホームレスの人びとにたいして、それぞれのケースにおうじて援助の 手をさしのべるのはすばらしいことであり、しかも、彼らの窮状をもたらす原因をつくった政策決定や経第 済的な仕組みを考察してみるならば、めざましい変化に道をひらくことに役だつといえるだろう。だが、 これこそ、なんとかして避けたいことなのである。おなじように、有毒な廃棄物の不法投棄から政府高

音のまで)それぞれの組織がおか犯罪の例をまるで真空のなかでおこったことのようにあつかいつ づけるならば、こうした行為をまねくことになったシステムをまんまと生きのびさせてしまいかねないの

である。 2 順応すること 現状をそのまま維持していく最良の方法は、ひとりひとりの人間が現状のもとめる 要求に確実におうじるようにするということである。かつては、「再教育」という粗野で、権威主義的な 方法によって、そのように適応していくことが強要されていた。現在では、こうしたやり方は、ほとんど 必要ではなくなっている。なにを着たらいいのか、どのように交渉したらいいのかなどをめぐっては、成 功する秘訣についてアドバイスする機会がたくさんあるのだから、それを利用できる。 こうしたアドバイ スのほとんどが、自分がおかれている状況に適応すべきだという前提にたって行われているのである。順 応することが、自動モデルにおいて決定的に重要な部分をなしている。 制度の枠内において、既存のルー ルにしたがって成功しなければならないのである。うまくやるということは、適合するということであり、 適合するということは、自分が適合している構造を強化することになってしまうのである。

3 自分自身について考えること 「ほしいものをあたえること」によって成功をうながしていくべき だということばは、自分自身の幸福だけを考えればいいのだということを暗に示唆している。自分のこと だけに関心をもつように限定してしまえばしまうほど、ますますよりおおきなシステムを維持していくの に手をかすことになる。だが、このことは、たんに物質的な成功だけにあてはまるのではなく、治療の活 動や精神的な活動についても、現状をたもちつづけていくのに役だつのである。なぜなら、自分自身の欲 求に関心をむけていくようにうながすことによって、社会構造から注意をそらしていくのに役だつからで ある。自分のことはきちんとやり、そのほかの世の中のことはなりゆきにまかせておけばいいのだ。 現存

つり出す 維持していけな

自分のことは、なりゆきにまかせ、世の中こと社会や構造そのものを手に する構造化させていくのに、これほどうまい手があるだろうか。たしかに、個人が成長することがあること 社会の変化につながっていく可能性があるのだと論じる人たちもいるだろう。しかし、人間の潜在的な能をしっかり を開発しようとする動きがあったとしても、たいていの場合は、この問題にとりくむことをもとめたりやろう。

はしないだろう。というのは、社会の変化は、人間の潜在的な能力を開発しようとするその目標や手法と

はなんの関係もないからである。

「現実的」であること さいわいなことに、よりおおきなシステムを擁護する必要はなにもない。 ぎゃくに、システムを非難する人に共感を示しながら同意することもできるのである。 しかし、システム をする人に同意する場合にも、同時に、肩をすくめてみせることが決定的に重要なのである。 おおき 状況の流れにたいしてどうしようもないものだということを強調するためには、「好むと好まざるとに かかわらず」とか、「それがまさに現実なのだ」といったことばをどんどんつかうべきなのである。いう までもなく、このように無力であることを強調するのは、じつはたいへん

「人間は、特に個人は人だ!」 「社会はそんなに甘くない!

な力を発揮する。というのは、 このように無力であることを強調すれば、事態が、まさに現在のままの状態に放置しておかれるのは確実 だからである。このような立場にたつようにうながされる人が、社会的な活動を行うことによって救われ る人でもあるわけである。 現状に甘んじてしたがうことをこばん

だり、変化をおこすには無力であることを認めたがら 者がいるものだ。そういう人間には、ただちに「理想主義者」というレッテルをはってやるべき である。理想をもつということが、なにか意をはらうべき意味あいをもっているように聞こえるとすれ第 ば、それは幻想である。理想主義者というのは、「世の中をあるがままに」 理解しない人のことだと考え てかまわないだろう世の中」「現在」「あるがままに」=「これからもずっとそうである」と

いう意味なのだ。こうしたレッテルは、その批判者が現実や「人間性」をあやまって理解しているとい うことに気づかせてくれるし、批判者のいうことをまじめにとりあげる必要がないこともうけあってくれ るのである。反対に、「実利主義的な」人びとは、いつも、現実にあたえられているものの枠内でなんと かしなければならないのだということを承知している。いずれにしろ、代替モデルがほんとうに実現可能 なものならば、とっくにそれを利用しているはずなのである。 現実主義にうったえるならば、批判者の立場がもちあわせている(したがって、現状がもちあわせてい

地球人

る) 価値観をめぐるやっかいな議論を避けることができるという利点がある。批判者の見解を「善意なの はわかるが、実現不可能なものだ」とし

テキストのコピーはできません。