ポスト工業化文明、つまり真の 意味でのポストモダンを方向づけるものだとすれば、それは人 類史的にみて、ウィルバーの心理的自我的発達段階からニル マーナカーヤ段階への「アートマン・プロジェクト』春秋社・参 照)、あるいはヤングの第四サブステージ人類から第五サブステ ージ以降の超人類への(「アーサー・ヤング」の稿参照) 質的大転 を象徴しているといえる。

<グローバル・トレンド〉が、ポスト工業化文明、つまり真の 意味でのポストモダンを方向づけるものだとすれば、それは人 類史的にみて、ウィルバーの心理的自我的発達段階からニル マーナカーヤ段階への「アートマン・プロジェクト』春秋社・参 照)、あるいはヤングの第四サブステージ人類から第五サブステ ージ以降の超人類への(「アーサー・ヤング」の稿参照) 質的大転 を象徴しているといえる。いや、このトレンドの広がりこそ、 そのままベイトソンのいう〈精神〉の進化にほかならないかも しれないのだ。ヤングのプロセス理論においても、ウィルバー の意識スペクトルにおいても、この転換点は意識の進化が 累化から文字どおりの進化に転ずる重大な山場であ ることを想い起こされたい――これをヤングは折り返しないし ターンと呼び、カプラはこの現時点を正しくターニングポイン トとして位置づける。そして、このターンの契機であり最大の こころ インヴォルーション イヴォルーションメタモルフ トランスフォーメーション 指標でもあるのが、生態学的な認識の獲得、利己的で近視眼的 自我の論理(エゴ・ロジック)から、全体的・共生的な生命圏 の論理(エコ・ロジック)への脱皮だろう。この“脱皮”という 隠喩も、昆虫の変態と進化的変 容を結ぶすぐれて エコロジックな表現だが、ここではベイトソンの”メタローグ” の精神にのっとって、その生態学的認識の生成と、一人ひとり の生活およびより広い社会的・文明論的コンテクストにおける その発現に関する一つの”エコローグ”語られることばや 内容が、生命圏の調和的進化というより大きな背景を映すよ うなを綴ってみることにしよう。 コンテント コンテクト

エコロジー
「エコロジー Ecology」ということばは、ドイツの生物学者エ ルンスト・ヘッケルが一八六九年に初めて提唱した造語で、ギ リシア語の oikos (家・家政) と cogos (知恵・知恵の体系)とを組み あわせたものである。つまり、自然がそれ自身をどうやりくり しているかという家政学の理解をテーマとした学問だとい えよう。その意味では、生命の成りたちないしありさまをあつメタモルフ トランスフォーメーション 指標でもあるのが、生態学的な認識の獲得、利己的で近視眼的 自我の論理(エゴ・ロジック)から、全体的・共生的な生命圏 の論理(エコ・ロジック)への脱皮だろう。この“脱皮”という 隠喩も、昆虫の変態と進化的変 容を結ぶすぐれて エコロジックな表現だが、ここではベイトソンの”メタローグ” の精神にのっとって、その生態学的認識の生成と、一人ひとり の生活およびより広い社会的・文明論的コンテクストにおける その発現に関する一つの”エコローグ”語られることばや 内容が、生命圏の調和的進化というより大きな背景を映すよ うなを綴ってみることにしよう。 コンテント コンテクト

エコロジー

「エコロジー Ecology」ということばは、ドイツの生物学者エ ルンスト・ヘッケルが一八六九年に初めて提唱した造語で、ギ リシア語の oikos (家・家政) と cogos (知恵・知恵の体系)とを組み あわせたものである。つまり、自然がそれ自身をどうやりくり しているかという家政学の理解をテーマとした学問だとい えよう。その意味では、生命の成りたちないしありさまをあつ<グローバル・トレンド〉が、ポスト工業化文明、つまり真の 意味でのポストモダンを方向づけるものだとすれば、それは人 類史的にみて、ウィルバーの心理的自我的発達段階からニル マーナカーヤ段階への(「アートマン・プロジェクト』春秋社・参 照)、あるいはヤングの第四サブステージ人類から第五サブステ ージ以降の超人類への(「アーサー・ヤング」の稿参照) 質的大転 換を象徴しているといえる。いや、このトレンドの広がりこそ、 そのままベイトソンのいう〈精神〉の進化にほかならないかも しれないのだ。ヤングのプロセス理論においても、ウィルバー の意識スペクトルにおいても、この転換点は意識の進化が 累化から文字どおりの進化に転ずる重大な山場であ インヴォルーション イヴォルーション ることを想い起こされたいこれをヤングは折り返しないし ターンと呼び、カプラはこの現時点を正しくターニングポイン トとして位置づける。そして、このターンの契機であり最大の

こころ

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