こころの誤認知

 

人が感覚器官の対象物を思う時、
それらに対する執着 (sangha) が生ずる。
この執着から情欲 (kama) が生じ、
情欲から怒り (クロダ) が生ずる。

怒りから迷妄が生じ、
迷妄から記憶の混乱が生ずる。
記憶の混乱から理智 (buddhi) の働きが喪失し、
理智の働きの喪失から人は破滅する。

感覚器官の対象物への愛憎を離れ、
諸々の感覚器官の働きを制御し
自己を制した人物は、
感覚器官の対象物の中にあっても
平安の境地に達する。

平安なる境地において
その者のすべての苦悩は消滅する。
というのも、
平安なる境地にある者の理智は
直ちに不動となるからである。

(バガヴァッド・ギーター第2章62〜65節)

 

すなわち、
執着→愛欲/情欲→怒り→迷妄→チッタ/記憶の混乱→理智の喪失→破滅

 

 

制感し得ない者は
信仰についての理解力がなく、
静慮 (バーヴァナー) を施す能力がない。
静慮を施し得ない者には
寂静 (シャンティ) はない。
心が寂静でない者に
どうして幸福 (スッカ) があろうか。

諸々の感覚器官は、
本来その対象物に向かって働くのである。
これら諸々の感覚器官の働きの
いずれに対しても意思がつき従うと、
丁度、風が水上を舟をさらうように、
それら感覚器官の働きは
智慧 (プラジナ) を奪い去ってゆくのだ。

それ故に勇士アルジュナよ。
すべての感覚器官が
その対象物へと向かう働きを制御し得た時、
その人物の智慧は不動のものとなるのだ。

無智なる万物に夜が訪れている時でも、
自己の意識を制する聖者は
目覚めていると言える。
無智なる万物が五感によって知覚される
生活の中で目覚めている時は、
解脱 (モクシャ) に至った聖者にとって
それは夜なのである。

(バガヴァッド・ギーター第2章66〜69節)

 

*智者と無智者の違い

智者とは、
最も深い沈黙と孤独のさなかに
最も強烈な活動を見出し、
最も強烈な活動のさなかに
砂漠の沈黙と孤独を見出す人。
要は
俗世の諸事に一般人が執着して
その欲望をむき出しにして楽しんでいても、
一切そうしたことに引きずられない
不動の精神を持っている人。
理由は
無用な執着/誤認知を
持ち合わせていないからです。
従って
智者は
二極対立の思いに囚われずに
静かな人生を生きていけるのです。

 

 

The Simple Feeling of Being
Embracing Your True Nature

 

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